怒りによって動かされてきた人生から、不動明王のような生き方へ
先日参加したNR Japan主催のメソッドセミナーで、ゆっくりと自分の人生を振り返ってみた。
自分自身でも見つめ、
講師であるNoh Jesu氏に感情セッションをしてもらい、
そして一緒にセミナーに参加してた友人からの投げかけもあり、
今まで以上に自分自身に対しての理解が深くなった。
私は、小さい頃とても短気だった。
nTechに出会ったことで、感情が生まれる仕組みも理解でき、自分でコントロールできるようになって、怒るという行動に出る必要もなくなった。
だから、短気っていうことは解決しているのかな?と思っていたけど・・・
今回セミナーの中でNoh Jesu氏から施術してもらった私のパターンは、
「短気・せっかち」ということだった。
とは言っても、普段使う言葉の意味とは違っていて、
Nohさんからあったコメントとしては、
「今ここで生きる人」「今ここで決めたい人」という診断だった。
私はこれを聞いて、「なるほど〜!!」と納得!!
「短気・せっかち」とは性質的には思っていたけど、
「今ここで生きる人」「今ここで決めたい人」という意味合いがプラスされた瞬間、一気に人生が整理されるような気がした。
3人姉妹の真ん中で生まれて、小さい頃はたくさん喧嘩した。
ちょっとしたことで、掴み合ったり叩き合ったり・・・・
真ん中って独特なのはみなさんもご存知の通り。
口が達者で、喧嘩すると家族はみんな姉と妹の見方。
私 : その他家族 という対決構造になることが結構あった。
周りの現象からみたら、私が一番強く表現するから一番ひどいように見えても、もちろん全てにおいて私に原因があったわけではない。
だけど、全ての状況が把握できてない以上、家族がそう捉えるのも今思えば仕方ない・・・。
だけど心の底では、「めぐちゃんが悪い!」と現象だけ見て決めつけずに、私を理解しようとし、自ら歩み寄ってきてくれる存在を探していたように思う。
そして、そんな内なる望みが叶わない事が続き・・・、
ついに親への「きっと分かってくれるはず!」という期待を、自分でバッサリと切った瞬間を今でも覚えている。
今振り返れみれば、「怒り」の裏には「強い寂しさ」があった。
「寂しさ」を表現することができずに、その伝わらない悲しさを「怒り」として表現していたけど、この「寂しさ」を抱きしめて欲しかった感覚は今でもずっとある。
「どうせわかってくれない」「私にはだれも歩み寄ってはくれない」
「だったらもういい!1人で強く生きていくから!」
って、心を閉ざして、「怒り」で生きることを決めた様な気がした。
他にも人生の岐路には何度となく様々な「怒り」のシーンを思い出す。
高校時代・大学時代はもちろん、
就職してから感じた現代の親に対しての怒りや社会に対しての怒り、
歴史文明・時代精神を学ぶ中での、今の日本が置かれている現状に対しての怒りなど、
今もフツフツと湧き上がってくるものがある。
今回セミナーに参加して、今まで以上に自分自身に整理をかけていく中で、
怒りの象徴である不動明王と改めて出会った。
不動明王とは・・・・
怖い様相から「戦いの仏」のように見えるが、実際は迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で、慈悲深い。
不動明王の表情は大日如来の化身とは思えない怖い表情。
それは優しくするだけでは如来の教えを守ろうとしない人を叱る役割を持っているからだそう。
その通りだと思った。
今まで「怒り」という事に対して、良いイメージがなかったが、本当に他を愛するためには、「怒り」は大事な感情だ。
厳しさのない愛は中途半端。
本気で他を愛し、本気でこの時代のために生きよ!というメッセージだと自分なりに解析。
今までの苦しい過去さえも、未来に向けて前進するための大事な宝であることに整理整頓できる技術。
この技術に出会えている私の人生、捨てたもんじゃない。