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唐松神社に行ってきました!

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秋田で1人の女性が立ち上がって、地域活性化を起こすための協会説立が完成しました!

 

そのお祝いも兼ねて、秋田で開催された、Noh Jesu1dayセミナーin秋田へ参加してきました!

 

その秋田の地にある唐松神社が、とても歴史が古く神聖な場所であり、nTecで伝えている悟りの世界がそのまま表現されている神社でした。

 

色々と歴史に触れることができた旅。

唐松神社を紹介します。

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『唐松神社について』

 

唐松神社の御祭神は饒速日尊(ニギハヤヒ)で物部氏の遠祖です。参道より下ったところに社殿がある独特の配置です。

代々の宮司が一子相伝継承してきた文献が『物部文書』と言います。蘇我氏との対立で敗れた物部守屋の子・那加世(なかよ)が、秋田に落ちてくる際に持参した古代史料の写しとされています。昭和58年(1983)に一部公開されましたが、大部分は依然として未公開のままです。

 

『物部文書』により伝わる話があります。

 

饒速日尊(ニギハヤヒ)が鳥見山に降臨し、今の唐松岳に「日の宮」を造営しました。これが唐松神社の起源です。

神功皇后三韓征伐の際、物部膽咋連(いくいのむらじ)がこれを助けました。後に神功皇后は日の宮を詣で、韓国を服(まつ)ろわせたことを記念して月の宮を造営。以来、その社を韓服(からまつ)宮といいます。

蘇我氏との対立で敗れた物部守屋の子・那加世(なかよ)が、日の宮の神官になりました。唐松神社宮司家はその子孫です。

饒速日尊(ニギハヤヒ)が天降りの際に持ってきた十種の神宝のうちの5つ(奥津鏡、辺津鏡、十握剣、生玉、足玉)が残されているといいます。

 

また、饒速日尊(ニギハヤヒ)は神武天皇と密接な関係があったとも伝えられています。

 

神武天皇が高千穂にいるとき、大和を支配する神は饒速日命(ニギハヤヒ)でした。

神武天皇は国の中心から天下を治めるため、東の大和の国に東遷することにしました。

神武天皇が大和に入った際、饒速日命(ニギハヤヒ)に仕える長髄彦(ナガスネヒコ)が皇軍を撃退しました。

神武天皇は再び大和を攻めましたが、長髄彦(ナガスネヒコ)には勝てなかったのです。

 

その際、金鵄が神武天皇の弓先に止まり、激しく輝いて長髄彦(ナガスネヒコ)の戦意を奪いました。

 

長髄彦(ナガスネヒコ)は「我が君こそが天孫である」と主張しました。

神武天皇がその証拠を求めると、長髄彦(ナガスネヒコ)は饒速日命(ニギハヤヒ)の持つ「天羽々矢」を差し出しました。

すると、神武天皇饒速日命(ニギハヤヒ)を天孫と認め、自らも同様の印を見せたのです。

神武天皇天孫であると知った饒速日命(ニギハヤヒ)は、天津神の序列に従って神武天皇服従したと言われています。

 

 

唐松神社の御神体は神社の裏にそびえる唐松山です。お山の気を感じながら参拝し、できれば山に登るとよいそうです。

唐松神社のご神気は火と水のエネルギーが渾然一体となって天空に立ち昇りながら新しいものを作りだすような気質です。唐松神社の隣にある天日宮には、陰と陽を統合する、内的世界と現実世界の不調和を一つにまとめる、というような働きがあり、新しいものごとを生み出すパワーが得られます。子宝、安産の神社としても親しまれています。

 

https://nicoanet.jp/entry_f/pages/oldaward/02tohoku/05akita/images/ak001.pdf