10年前からの自分の変化を振り返って
「変化したい!」という意志を立てて取り組んでいる同じ職場の若者の変化に寄り添う中で、今までの自分の人生を振り返って思う事。
10年前の私
薬剤師という仕事についたものの、「これが一生やりたい仕事なのか?」という疑問を感じ、人生の岐路に立っていた時期。
仕事は他の仕事に比べると、それほど大変なものではないしやり続ける事はできる。
だけど、一日の大半をやりたい訳でもない仕事に費やす事への違和感、そしてそもそも薬剤師と言う仕事にたしての生きがい・やりがいを持てなかった時期でした。
折角この時代に日本人として生まれてきたのであれば、何かしら「私にしかできないことがあるのではないか?その生きる意味・方向性と出会いたい!」
と海外に行こうか、他の仕事を探そうか・・・と思っている時に出会ったのが、NohJesuという1人の韓国人でした。
Nohさんに出会って思った事、出てくる言葉には対しての印象は、
・この人が発する言葉一つ一つには宇宙全てが入っている
・全ての答えを分かっているのか?
・私の可能性、人間が生きるべき方向性が分かっているのかもしれない
・必ず何か、私の知らないものがあるに違いない。確実なものがないこの世界なら、だまされても良いから受け取ってみよう
一種の博打のようなものですね。言ってみれば。
なので、最初は迷いに迷って、今まで一度も行った事のない占いにまで足をのばしてみたりもしました。
で、「あなたは影響を受けやすいから、入り込まない方が良い」といわれたのにも関わらず、占いをぶっちぎって受け取ってみました。
今思えば、何とも知れない私の人生に責任をとってくれる訳でもない占い師さんの言葉で、意思決定をぶらされなくて良かった!って心から思います。
あの選択から私の人生は良い方向への転換をむかえて、人生がスタートしたと言いきれる出来事となっています。
自分と自分の宇宙は実在しない、バーチャルの中で生きているのが人間という存在である。
ドイツの最年少哲学者である、マルクス・ガブリエル教授は、このような本を出版された。
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ガブリエルは弱冠29歳にしてドイツの名門ボン大学の哲学科主任教授となった俊英だ。もともと「ドイツ観念論」を専門としてシェリング研究で評価された研究者だが、本書が2013年6月に発売されるやベストセラーとなり、彼は一躍思想界のスター的な存在となった。
いわゆる「言語論的転回」以降のポストモダン思想は、「相関主義」ないし「構築主義」と呼ばれる。カント以降の哲学では、人間は世界や事物のありのままの姿(物自体)を知ることはできないとされる。人間にとっての事物の存在は、常に人間の認識能力との相関のもとにあり(相関主義)、むしろ世界は言語をはじめとする人間の認識能力によって構築されることになる(構築主義)。これらがカント以降の哲学における共通認識だったが、ポストモダン思想はさらにそれを推し進めた。人間の認識能力は多様であり、人の数だけ真実が存在する。言い換えるなら、唯一絶対の真実は存在しない、と考えるのだ。
メイヤスーやガブリエルの「実在論」は、こうしたポストモダン的相対主義を批判的に乗り越え、絶対的な実在を擁護しようとする。
本書におけるガブリエルの主張は、要約すれば以下の通りだ。
「世界は存在しない。しかし、それ以外のあらゆるものは存在する」
ガブリエルが出している例で言えば、3人の人がソレントやナポリからベズビオ山を眺めているとして、古い実在論では実在するのはベズビオ山のみ、ということになる。構築主義では3人の視点から見た3つのベズビオ山があると考える。新実在論では、視点から独立したベズビオ山に3人の視点からのそれを加えた4つの山があると考える。
このような結論になるのは、ガブリエルが「存在」の定義を変えたためである。彼によれば「存在する」とは「何らかの意味の場に現象すること」である。この定義のもとで存在を捉えるなら、あらゆる存在はそれについて考えることを可能にするメタ的な「意味の場」を必要とする。しかし唯一、「世界」にとっては、メタ的な場は存在しない。なぜなら世界とは、あらゆる意味の器にほかならないからだ。あなたが世界について考えているとき、その対象はもはや世界そのものではあり得ない。よって「世界は存在しない」。
メイヤスーの議論にもそうした傾向があるが、率直に言えば、この論証には、少々言葉遊びめいたところがあることは否定できない。「存在」を定義づけた時点で「世界」は予め排除されているのだから。
しかしそれでも評者がガブリエルの思想に希望を見出すのは、たとえば次のような一節ゆえだ。「世界が存在しないことが、意味の炸裂を惹き起こす」。ガブリエルの言うように、「人生の意味」は、ただ「生きるということ」にほかならない。なぜなら人間は、「ただ生きる」だけで、尽きることのない意味の生成に参与することができる「存在」なのだから。そして世界の不在こそが、それを可能にするのだから。
(清水一浩訳)
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私は、26歳でNohJesu氏と出会って、強烈なパワーのある教育に出会いました。
強烈過ぎて、最初はとても怖かったけど、今はこれほどまでに人間の中に、そして世の中に溢れている不安恐怖、寂しさや迷いを優しく包越し、次の未来の方向性を指し示してくれるものは、世界のどこを探してもないだろうと思います。
脳があれば必ず起こる限界、存在があれば必ず起こる限界、人間が人間として生きていく上で知るべきことがあります。
知るべき事も知らずに生きていく事は、まるで電気もつけずに、断崖絶壁を歩く様なもの。
そりゃー、途中で足を踏み外し転落もするし、暗闇で方向性を見失い、立ち止まるしかなくなります。
その状況でニコニコ・ワクワク生きていたら逆にちょっと心配になるくらい。
数学・物理学の世界が、統一理論を探しもとめて行く道が進めば進む程、必ず東洋の悟りの世界と合一していきます。
要は、目の前の現実は自分の認識が作った世界。
目の間の存在をどうにか動かそうとするのではなく、自分の認識を変えた分だけ、目の前の現実が面白いくらい反転していく世界なのです。
目の前の現実を、自分で統制できる生き方。
それを可能にする教育技術が、すでに日本初で完成していることに、早く気付いて欲しいものです。
全ての原因は自分にある
私も昔は、自分の認識が目の前の現実を作っている事を知らなかったので、大分人を責めて自分を責めて、傷だらけでした。
どちらかというと自己否定が強いので、自分に自信なんかなく、他人の目を気にして発言もできず・・・、小さく小さく、でもどこかで「こんなもんじゃない!」と主張したい心もあったのか、ファッションはとても個性的でした。
「インポートものしか着ない!」というこだわりがあって、内側からの湧き出る個性がない分、どうにか外側で主張する。
そんなアンバランスな人間でした。
でも、ある時、目の前の現実は自分の認識が作り出している世界だということを明確に理解した時、全ての不安恐怖、今までの訳の分からない違和感が払拭されました。
だって、超シンプルですよね。
目の前の複雑多様なものを変化させないといけないと思っていたのに、それが全て必要なくなったのですから。
変えるべきは、自分の認識だけ!!
ココに集中することが、全てを変化させることだ!ということなんです。
私が出会う多くの人達も、自分の努力では変化させることのできない目の前の複雑多様な世界に振り回されているのが手に取るようによく分かります。
エネルギーの使い方が、どうしようもないところで思い悩むのではなく、クリエイティブなところに活用できるような人間を、これから量産していきたい!
それを可能とする技術がnTechです✨